(雑文)について。

自分の作品というのは、思考と思考を連鎖させたり、言葉の響きを考えたり、言葉を整えたりといった作業をある意味「無意識」に行ってきた。いわゆるネットに掲載する文章は、それらの作業がめんどくさく感じられる。それは、「未完成」を認めることになるのだが、自分のネット上での考え方は「究極の未完成」勢いなんかも時には必要。そのめんどくさい作業を放棄した文章に(雑文)とつけている。
2000年ごろに提唱した「ことばのデッサン」に近い。これは「未完成」を意図したものではなく「繰り返し練習する」という意味だった。その当時の友人に否定された形で、広くは発表しなかったんだけどね。今でも、心情を心の中で整理するとき、同じテーマであっても、違うアプローチで膨らんでいく事がある。そんな時、そのデッサンを残しておかなかったことにちょっと後悔。そしてその後悔も忘れてしまう事が多い。