やまうちあきひろライン。

  • それは足りない「もう少し、あと少し」

去年の夏、とある人と創作について語った。創作の姿勢といったような話。
「もう少しがんばれば、もっといいものが作れるのに。そういう人が多い、もったいない」
その言葉が印象深かった。もしかしたら、自分にも言えることなのかもしれない。どこか妥協している。やがて、それは当たり前の日常になってはいないか…。
2003年の「過程Ⅱ」も、今の「ライン」についても、どこか必死になることをやめてしまったかのようだ。「つらいのはいやだ」そんな弱音を吐いて。いつまでも同じ場所にいるわけにはいかない!

  • 客観視、ばかり。

1999年の大学時代、僕はナルシストといわれた。それは、罵りの意味だったが、自分ではそのことをむしろ名誉にも感じた。みなぎる自信、それがエネルギーとなり、更なる自信を生み出した。行動力なら誰にも負けない。
がんばっている自分に酔っていたといってもいい。つまり、自分が見えない。今は、自信を失い、人からどう見られているかということをすごく気にする。結局、自分の姿を見えなくすることが一番楽だということもわかってきた。
1996年「人になんと言われようとがんばってほしい」といわれたのを思い出す。簡単な理屈なんだと思う。早く走れば、感じる向かい風は大きくなる。わかっている。でも、行動が共わないと、説得力が無い。そのために「ライン」やりたい!

  • 具体像は簡単なんだけれども…。

もう1年以上前から「ライン」の具体像は固まっている。表現方法のディティールは変化している。2003年のA案と2004年のB案、2005年のC案みたいな感じで、正直迷っているといっていい。自分の中でGOサインが出ない。言ってしまえば「過程Ⅱ」と同じ過ちだ…。そこで「過程」意味を問う。初めての個展となった2000年の「過程〜コンプリート〜」では裏コンセプトがあった。「完成じゃなくて、過程なんだからよう」完成の否定ともいえる。
「過程」の意味合いは、人生における完成(つまりは死)の否定から来ている。まあ、2000年当時は「自信」という後ろ盾も大きかった。
生と死という観点から書けば、2000年前後は死を真っ向から否定するためにものを書いたり一連の創作発表活動をしていたといえる。とにかく前へ進め!歴史を塗り替えろ!ものを書いているのは生きている証だ!なんて感じで。2003年になると、どこか死を意識してはいなかっただろうか。作品を資料化する!ものを書いているのは生きてい「た」証だ!なんていうどうしようもない戯言。2005年の現在、それらを壊したいとも思っている、いやむしろ両者を包括する。そう考えると、今を一生懸命生きるしかなくなる。自分から見たカッコいい生き方、他人から見たカッコ悪い生き方…そういったものをすべて含めて。