本当に必要な人ならば、もう一度出会える。

最近一行心情ばっかりだからというわけでもないが、ちょっと書いてみよう。「本当に必要な人ならば、もう一度出会える」という言葉はすごく気に入っている。落ち込んだ時救われる感じがする。自分の創作にとって「救い」というのは重要なキーワードだ。このブログを書く時、過去に同じ事を書いていないか検索してみる事がある。そうすることで心の傾向性がわかる。
「誰にも必要とされていないんじゃないか」とネガティブに考える事がある。身近な救いは恋愛と家族である。恋人をまた親や子を必要としないはずがないのだ。もうひとつの救いは「自分のできることはやり遂げたか」という点。簡単には「誰かに必要とされる努力をしたか」でも、実際に実行するのは本当に難しい。最近の自殺問題も「誰にも必要とされていないんじゃないか」という想いからだろう。一概には言えないが、この世界に後悔・未練がなくての自殺ならアリかもしれない。だが果たしてどうなのだろう。その答えは謎に包まれる。謎を明らかにしないところが生き残った人間の善意であると僕は考える。思考停止だといわれても仕方がない。ただ責任の所在を明らかにする意味はあるのだろうか。
「誰かに必要とされる努力をしたか」というのは、持論である「愛している・愛されている論(Dreams Collectionにおいての恋愛論である)」から考えると、「誰かを必要とする努力をしたか」ということ。<心の拠り所>というキーワード。自分の創作もさっき書いた「救う」事と共に「拠り所」になりたいという想いがあった。勘違いして欲しくないのは、これは自分を神格化しているわけではないということ。ひっくり返すと自分は書くことで救われているのだから。